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2024年5月30日
ブログ「専業主夫」歴2年ありの57歳。 収入は前職の⅕でも 今が人生最高に幸せな理由。
50歳を過ぎで大手企業を退職し「自分探し」を始めた川口さん。
息子さんが不登校になったときも、家族を支えるために東京での単身赴任生活を続けていた。
ところが、あることがきっかけとなり、退職を決意。
自分の本当にやりたいことを見つけ、息子さんと一緒にコミュニティ活動する新しい生活が人生で一番幸せとお話される。
そんな川口さんのキャリアを伺ってみましょう。
お名前:川口直樹さん
キャリア:会社員→専業主夫→NPO法人職員/胎内記憶教育講座
「本当にしたい仕事ではない」この心の声をかき消しながら働いた大手企業のサラリーマン時代
ー川口さん、本日はよろしくお願いします。川口さんは50歳すぎて、転職し、やりたい仕事をみつけ、さらに新しいキャリアにも挑戦されようとしています!早速ですが、ここに辿り着くまでの経緯を教えていただけますでしょうか?
川口:はい、よろしくお願いいたします^^私は、これまで2度の大きな転職を経験していますが、以前は大手生命保険会社に15年間勤務していました。
退職した理由ですが、実は、入社した当初から「自分には向いていない」と違和感を感じていたんです。
ーそうなのですね。感じられた違和感は具体的にはどのようなものだったのでしょうか?
川口:そうですね。一言でいうと私の価値観と仕事内容があっていなかったんです。
保険業の前は健康食品会社にいました。私は予防医学の考え方に賛同していたので健康食品の販売は個人的な考えと合っていたんですが、生命保険は病気になることが前提のサポートになります。もちろん生命保険が必要ないとも思っていないのですが、考え方の違いを感じていましたね。
ーなるほど自分が大切にしている想いと異なる環境にいるのは心理的には苦しいですね。
川口:そうですね。ただ、正直、大手企業の社会的な地位や経済的な安定感を優先していて、自分の心の声をかき消すように仕事をしていたのだと思います。
そんな状況のまま、私は東京へ単身赴任となり、丁度そのタイミングで10歳だった息子の登校拒否が始まったんです。
2ヶ月に一度は長崎の家に帰っていましたが、なかなか息子との距離を縮めることはできませんでした。
ーそうだったのですね。ただ、その後、50歳を過ぎた後に、大手企業を退職する決意をされていますね。
勇気がいるご決断だったと思いますが、決め手は何だったのでしょうか?
川口:私の母の病気と死があったからですね。母は以前から「今の仕事(生命保険の仕事)はあなたには向いていないと思うよ」と言ってくれていましたし、また「本当にやりたいことができているのか」と、私に聞いてくることもありました。
母は私が口にもしない違和感や仕事に対する疲弊を感じてくれていたのだと思います。
母が亡くなる数ヶ月前に電話で何気ないやり取りをした時、言葉にはしないけれども、母が「もう無理しなくていいんじゃないか」という風に言ってくれているの直感的に感じたんです。
その後、すぐ、私は先を決めずに退職を決断しました。数ヶ月後、母は永眠しましたが、亡くなる直前に、「やりたいことをやるという決断をしたよ」と母へ報告できたことが、母の冥土の土産にできたかなと思っています。
サラリーマン時代の写真
2年間の専業主夫。息子の不登校の経験がキャリアコンサルタントへの道を拓く。
ーさて、退職してから2年間、「専業主夫」をされていたとのことですが、そのご経験はいかがでしたか?
川口:そうですね。主夫の経験をして良かったことは、女性の家事の大変さを理解できたことと同時に女性の能力の高さを実感できたことですね。
多くの日本の女性が仕事をしながら子育てをしている、しかも毎日3食違うメニューの食事を考える、これだけでも、すごい労力なんだということを本当に実感しました。(笑)
ーこの発言は時代錯誤でもありますが、普段、評価されにくい家事に対する尊敬の気持ちを払っていただだいて、きっと多くの女性が喜んでいると思います(笑)
川口:そうですね。そして、次のキャリアを考えるために、2年間で、有料、無料のセミナーを200種類以上の受けました。
前職で、自分の本心と違うことはできないと経験したので「自分が本当にやりたいことを見つける」そのための時間を過ごしていました。
心の赴くままにセミナーを受けていたんですが、これまでしてきた数々の仕事の経験から、「一人一人に向き合って成果がでるまで相手をサポートする」、これをやり切れる仕事をしたい。
そして、息子の不登校で家族が崩壊寸前を経験したこともあり、心理カウンセリングを学び、その後キャリアコンサルタントの資格を取得しました。
ーなるほど、その両方が叶ったのが、今の認定NPO法人との出会いなのですね。
息子さんと一緒に。
仕事を超えた活動「トーキョーコーヒー」との出会いと「父親、辞める宣言」の理由。
ー再び、新しいキャリアに挑戦した川口さん。今のNPOの仕事とその延長で出会ったコミュニティ活動を始められ人生観が大きく変わられたとのこと。
川口:そうなんです。今私が所属しているNPO法人は不登校や引きこもりなどの社会的孤立を家庭の問題だけにせず社会全体で解決するという考えの場所です。その活動をする中で「トーキョーコーヒー」というコミュニティに出会いました。
トーキョーコーヒーは「登校拒否」のアナグラム(言葉遊び)です。
元々、大人が井戸端会議のようにおしゃべりして元気になる場所が自然と創られ、その後、登校拒否の子供たちも一緒に訪れるようになり、コミュニティーになっていきました。
「不登校は子どもの問題ではなく、大人の無理解によるもの」という考えに賛同する人達が広めていって、今は日本全国に400拠点あり、その輪はますます拡がっているんですよ!
今の社会は、ご近所付き合いや、家族や親戚との繋がりも疎遠で、又、家族そのものが孤立しがちです。
昔の日本のようにお互いが助け合える繋がりが自然にある、そんな場が殆どありません。その場があるだけで、安心したり、幸せを感じられる、そんな場を広める活動をしています。
ーとても素敵ですね。地域コミュニティが不登校の課題を解決するというものなんですね。ところでNPOでのお仕事やトーキョーコーヒーは川口さんにどんな変化をもたらしましたか?
そうですね、一番は「こうあらねばならない」「こうするべき」という自分の固定概念から解放されたことですね。だから、本当にすごく楽です(笑)
息子の不登校の際は、この固定概念で、家族全員が苦しみました。
「学校に行くべきだ」「学校で友人を作るべきだ」「学校へ行かないのは心が弱い」「友達がいないのはダメだ」など、たくさんの「こうあるべき」という一般的な社会通念に、私達親も子供も、どんどん追い込まれ疲弊しましたね。
実際には、息子は通信制の高校に進み、自分のペースで友達も作り、そして今はアルバイトもして、前向きになっていきましたから、今、考えると私の「こうするべき」が息子を一番苦しめてしまっていたことがわかります。
実は、ある日、息子に宣言したんです。「お父さんは今日からもお父さんを辞める!」と。
これは、父親としてのその責任を負わないということではなく「父親はこうあるべきだ」という固定概念から自分を解放するというのが本当の目的でした。
家族であっても、人生は一人一人のものだから、「私の人生を大切に生きる」ことは「息子が自分の人生を大切に生きる」ことになります^^
実は、先日(2024年3月30日)長崎でダダさん(トーキョーコーヒー発案者)のトークライブを、私も含めた長崎拠点メンバー4人が主催したんですが、そこに息子も参加してくれたんですよ^^
トーキョウコーヒーのイベントの様子
「魂のご縁」という壮大な視点から人生を眺める
ー最近は日本胎内記憶教育協会の資格をとられ、今後、仕事にもしていかれるようですね。
そうなんです。「胎内記憶」とは、赤ちゃんが生まれる前の記憶を持っていることですが、さらに深めると、赤ちゃんが母親を自ら選んできているという魂の世界についてのお話なんです。
胎内記憶について学んだことで、息子の不登校という出来事に対するものの見方が大きく変わったんです。
ーそうなのですね!どんな変化でしたか?
息子の登校拒否の出来事ですが、彼が、10歳という年齢で、社会の壁にぶつかり、人生で立ち止まってくれた経験そのものが、私に大きな贈り物をくれたと思えるようになりました。
息子からは「焦らずにゆっくり進んでいいんだよ」だよと教えてくれたと思っています。
それまでの私はいつも何かに焦ってい、「早く」「先に何かをやらなければいけない」と得体のしれない強迫観念にかられてきた人生でした。その固定概念を手放していいんだと、息子が身をもって教えてくれたんだと、そう思います。
今、NPO法人で不登校のお子さんの人生をサポートする仕事で、家族の深刻な側面や社会の闇とも思えるようなことを垣間見ることが多いのですが、魂レベルで、子供はおかあさんとその家庭を選んで産まれてきた、そして、お互いが学びあうために出会っているという視点が加えられると、随分とものの見方や関わりが変わります。
ー「魂のご縁」という時空を超えた壮大な世界観のお話をありがとうございました。最後に、紆余曲折を経て、今のご自身の人生をどのように感じておられますか?
そうですね。今、サラリーマン時代よりも収入が1/5になっていますが、(笑)これまでの人生で最も楽しくて充実した毎日を過ごせています^^
ー本当にやりたいことやる人生でご自身が満足し豊かさを感じているというエピソードは、キャリアに迷う人の大きな勇気づけになると思います。素敵なお話をありがとうございました。
人はそれぞれの固定概念を持って生きているけれど、
その概念に縛られたり、周りから押し付けられることで苦しみや対立を経験する。
その渦中にいるときは、その固執した考えを手放すことは難しいけれど、
しっかり向き合い成長することで、辛い経験すらも贈り物になることもある。
又、目に見える世界を超えたものの見方を受け入れたとき、
どんな経験も尊い瞬間に変わる。
どの考えやものの見方を選択することも自由で、
最終的に、自分を幸せにする視点を自分で選ぶという強さを育てることが
本当の教育なのかもしれない。
2024年4月21日
ブログ歩く寺院!32歳でお坊さんになった経営者に聞く「自分の使命」の見つけ方。
「これからの人生、どう生きて行くべきなのか?」
誰でも一度は、この問いによって歩みの先を見失う。
入社3年目は離職が最も増える時期、仕事にも慣れ余裕ができたところで次のステージを見据えるタイミングなのだ。
この時に新しい人との出会いと学びを積み重ね、その答えを自ら見つけ出した高橋さん。
その後、得度しお坊さんとなり、自分も悩んだ問い「この人生をどう生きるのか?」を、共に見つけ出すお手伝いをされている。
使命とは、命の使い方。
自分の使命は何か?
心から喜ぶ生き方とはどんなものか?
他の誰もが答えられない、自分の内側にしか見つけ出せない孤独な旅で「使命」をみつけた高橋さんのストーリーをご紹介します。
お名前:高橋朋雅さん
キャリア:大学卒業→環境プラントメーカー7年勤務→起業
入社3年目、先行き不安から数々のセミナーを受講し模索する日々
ー高橋さん、今日はよろしくお願いします。
入社3年目頃に様々なセミナーを受講され学びを得て、最終的にジーニアスプログラムと出会い、今、それを教える講師をされています。まず、そもそも会社員時代に多種多様なセミナーを受講されていた理由から伺ってもいいでしょうか?
高橋:よろしくお願いいたします^^
そうですね。社会人になって3年経った頃「この先、自分は何をしたいのだろうか?」と考えるようになりました。
将来、年金だけでは足りないから副業しないといけないな、という考えから、副業の方法を学んだり資産形成セミナーを受講したりなど、本当にあらゆる学びを自分に与えていました。
ーそうなんですね。将来が見通せなくなったところから、その学びが始まっていたんですね。
高橋:そうです。最初は「副業しよう」から始まり「副業なら自分は何をすればいいのか?」と迷い、そして「どうせ副業するんだったら自分が心から喜ぶ仕事をしたいな」となりました。そして「将来は会社を辞めて独立したいな」と段階を踏んでいきました。
最後は、独立するなら「自分が人生で何をしたいのか?どう生きたいのか?使命が何なのか?」を知りたいと思っていたのがちょうどその頃でした。
ーなるほど、模索の日々だった訳ですね。その結果として、今、講師をされているジーニアスプログラムとの出会いまでの経緯も教えていただけますか?
高橋:使命を知りたかった僕は「使命を発見するコース」を受講しました。このプログラムは「自分の深い欲求を見つける、使命発見セミナー」で合宿に行ったりしたのですが、僕には使命が見つからないままだったんですよね。(笑)
内容は良かったと思うんですけども、自分にとってフィットしなかったということだと思います。そうこうしているうちに、ある方が「記憶力が上がるいいセミナーがあるよ」と紹介してくれて、それがこのジーニアスプログラムなんです。
ー使命が見つからなかったのは残念でしたね。そして、そこで留まらず前向きに別のセミナーに学びに挑戦されているのが素晴らしいです。
高橋:ありがとうございます。当時、いろんなセミナーを受けて、本も読んでいて「でも内容はほとんど覚えていない(笑)」というような状況だったんです。折角の学びが記憶に残らないのは勿体ない「記憶力UPのセミナーなら、これまでの全てを回収できる!」と思ったんです。
ーなんというか、合理的でナイスアイディアですね(笑)最終的にジーニアスプログラムで使命が見つかったのだから、全てはジーニアスプログラムに出会うために必要なお膳立てだったようにも思えますね。
社会人時代の海外旅行にて
記憶力UPセミナーが記憶力のみならず人生も向上させた
ー実際にジーニアスプログラムを受講した体験はどのようなものでしたか?
高橋:「衝撃!」の一言です。まさか、こんなことがこんな短期間でできるのか!と本当に驚きました。自分への可能性を本当に感じられて「これはすごい」と思いました。
ーそれは興味をそそられる体験ですね。ジーニアスプログラムはどのような内容のワークショップなのでしょうか?
高橋:ジーニアスプログラムは記憶力を上げるというのが入口なのですが、そもそも脳の使い方を学ぶものです。脳の使い方を学ぶことは、自分の考え方を見つめなおすことになり、思考に変化を起こします。思考や考え方が変わると自己肯定感に影響し「自分はできるんだ」「自分はすごいんだ」と自分に対する考え方も変わります。また記憶力の向上や脳の使い方を学ぶ変化によって「自分の脳に自信がもてる」ようになります。
僕に起きた変化は、以前は人前で話すのが苦手だったのですが、今では堂々と話せるようになったっていうのはすごい大きな変化だと思います。
ーなるほど!その時の感動と衝撃でジーニアスプログラムを教える講師として独立しようと思われたわけですね。
高橋:そうです。その頃、たまたま勤めていた会社が事業売却されることになり辞めるならこのタイミングだろうと思いました。まだ将来やりたいことは決まっていはなかったのですが、ジーニアスプログラムで「自分は何でもできる!」と無限の可能性が拡がっていて未来を信じてやめる決意をしました。辞めると決めた数か月後に、ジーニアスプログラムの講師養成プログラムが新設されると聞いて「それならこれを教える仕事をして独立しよう!」と、新しい道が拓けていけました。
ーすごいですね。未来が全く定まらなかった状態からやりたい仕事への道が拓けて行ったんですね。紆余曲折ありながらも行動すれば必ず辿り着くんだと信じられますね。ご自身がやりたいこと、使命が見つかってよかったですね。
高橋:そうですね。僕は、ジーニアスプログラムを通して人が自分の可能性を信じられて人生が変わっていくお手伝いをするのがたまらなく嬉しいんですよ。セミナーで生徒さんがみるみるうちに表情が変わり、自分への自信を取り戻していく姿を見ているとなんともいえない幸せを感じます。ジーニアスプログラムを伝えることが自分の使命だ!という感覚ではなく、ジーニアスプログラムを教えることで人生の軸が定まった感覚です。この自分軸を持てたことがジーニアスプログラムを受けて一番よかったことかもしれません。
ジーニアス・プログラムの講師養成コース受講時
32歳で仏道の門を叩きお坊さんになる!
ー高橋さんは、今年、仏道を学ばれ得度された状態になられたと聞きました。仏道を学ぶきっかけも教えていただけますか?
高橋:そうですね、ジーニアスプログラムの師匠小田全宏先生が東京の弘法寺の館長もされているんです。奥様も得度されていて「そろそろやったらどう?」という一言で自然な流れで始めました。
ージーニアスプログラムと仏道とはどんな関係性があるんでしょうか?
高橋:仏教はそもそも生き方、考え方の指南書です。自分の生き方を問うていくものなのですが、それは脳の使い方を教えることに似ています。
例えば、怒りがおさまらないという悩みがあって、それをコントールしていくには自分がどういう考えや考え方をしているかということになります。
仏道は、心をより幸せに柔らかく穏やかにするにはどうすればいいか、という古くからの叡智です。そして、ジーニアスプログラムは自分の生き方、考え方を脳の使い方を通して学び変える方法を教わります。
ーよくわかりました。お坊さんになられて日常感じている変化はどんなものですか?
高橋:そうですね。なぜか人からよく相談を受けるようになりました(笑)カウンセラーという感じではなく、普段の日常的会話から自然と相手が悩んでいることを打ち明けてくれたり、僕の方は、特に説法をするわけでもないのですが、学んだ観点を分かち合うことで、相手の心が軽くなっていかれます。
元々お寺は寺子屋という学びや地域の相談事を引き受ける場所だったようで今の時代にもそんな場所があればいいのにと思います。
ーお坊さんになると自然と人から相談されるようになったのですね。高橋さんご自身が寺院そのもののようですね!
高橋:そうなんですよ。お坊さんになったことで「歩く寺院」のように、いつでもどこでも誰かの心を解きほぐして苦しみを取り除く存在になりたいなと思います。
ー素敵ですね。最後に、今、同じように、これからどう生きたらいいのかと悩んでいる方へ「使命の見つけ方」について考えをお聞かせいただけますか?
高橋:そうですね。使命発見セミナーや他のセミナーを受けていた悩んでいた時期を振り返ると、答えが外から与えられるのを待っていたんだなと思います。「使命はこれだよ」と、どこかからか降ってくると思っていたんです。
でも、ジーニアスプログラムを学び、仏道を学んだ今、人には必ず使命があるとは思わなくてもいいだなと思います。逆に、日常生活からの学び、人の出会い、出来事の中で、自分の大切な生きる指針、自分軸が自然と見つかっていく、それが言葉を変えると使命と言えるのかなと思っています。
ーなるほど。素敵なお話をありがとうございました。
自分は何のために産まれてきたのか?
与えられた命をどう使うのか?
使命は生きる指針であり、人によってはそれを渇望する時がある。
渇望が混沌や迷いを引き起こし、時には、葛藤に苦しむ。
けれども、それそのものが人の成長のプロセスであり、
どう生きたいのかという問いが、新たな出会いを惹きつけ、次の人生を展開させる。
どう生きたいかという問いは、命の最深欲求で、それを満たすことが魂の使命なのかもしれない。
2024年3月26日
ブログ進路の迷いと悩み、最高のタイミングでチャンスの扉が開かれる、人生の不思議。
富山県立山町生まれの大平渓子さん、小学生の頃からほぼ毎日雄大な立山連邦を眺めながら犬と散歩するのが日課だったという。そんな大平さんは、美しいだけでなく心までも癒してくれる自然の秘密を解き明かすために研究者を目指し京都大学大学院まで進学。
探究心と情熱のままに進んだ先は、決して順風満帆ではなく、途中で目標を見失い人生の迷路に迷い込む。その後、大学院を退学し、今は、造園業の会社で自分が自然の一部として関わる本当にやりたかった仕事をされている。
未来を見通せず葛藤に苦しんだ大平さんがどのようにして自分らしく心が喜ぶ仕事を見つけることができたのか?人生ストーリーを垣間見てみましょう。
お名前:大平渓子さん
キャリア:大学院中退→アルバイト→造園業修行(個人事業主)
「自然が好き、だから研究者!」ストレートな熱い想いで一浪し京都大学へ
ー大平さん、今日はよろしくお願いします。大平さんは高校生で研究者を目指し、京都大学農学部、その後、大学院へと進学されたと伺いました。研究者になろうと思われた動機や想いを詳しく教えてください。
今日はよろしくお願いします。研究者を目指した動機は実はとても単純で「自然が大好きでもっと知りたい、だから研究者になってみよう」というものでした(笑)
私は富山県の立山町というとても自然豊かなところに生まれました。小学1年生くらいから毎日犬の散歩をしていて、長い時は3時間の時もありました。
一面に広がる田んぼ道を歩き、遠くに立山連邦の山の稜線を眺め、春夏秋冬(はるなつあきふゆ)それぞれの季節の移ろいを楽しみ、夜には眩い夜空の星たちに包まれてきました。
「どうしてこんなに綺麗なんだろう、どうしてこんなに気持ちいいのかな、そして、どうして自然はこんなにも安らぎを与えてくれんだろう」と思っていたんです。
その理由を知りたくて、それを解明するには研究者だ!て思ったんです。
ー長い時は3時間のお散歩とは、本当に飽きることなく自然に魅せられていたのですね。ところで研究者を目指されたのはいつ頃からでしょうか?
たしか高校2年の時だったと思います。研究者といえば京都大学というイメージがあり、農学部森林科学科を目指し始めました。
でも、最初の受験では数学が200点満点中3点という成績で(笑)全く届かなかったんですが、1年浪人して2年目で合格しました。
ーなるほど、自然の美しさに魅せられて、その秘密を解明したくなったという発想そのものが研究者にむいていると思いますが、すごい集中力で合格を手にされ夢を掴まれたわけですね!
やりたいことを見失い、進路に迷う日々、忘れない恩師の言葉
ーさて努力の末、無事合格された第一志望の京都大学、大学ではどんなことを研究されていたんですか?
学部では熱帯林の研究室に出入りして、実際にマレーシアのボルネオ島へ行き、熱帯雨林でキャンプをしながら採取した葉っぱの成分を分析して土と木の関係などを研究していました。
ーその後、大学院へ進学されましたが、迷われて休学されたようですね。どんな迷いがあったのでしょうか?
最初は研究にとってもワクワクしてたんです。でも重ねるうちに、自分の内側の感覚とちょっと違うな、そんな違和感を感じるようになったんです。
でも、研究者になることも大学院にいくことも決めたことだし、とそのまま進学を選択しました。
進学して大きく違ったのは、学部の時は先輩や先生が研究をサポートしてくれたのですが、大学院となると自分でやらなきゃいけなくなる、自分の明確な自主性と意思が必要です。そうなった時に、自分を突き動かすようなモチベーションが生まれず、進学早々に出席できなくなってしまったんです。
今振り返れば、鬱っぽくなる程、悩んでいたんだと思います。
ついに夏休み前にすごくお世話になってた教授に「大学院をやめようと思います」と伝えにいったんです。
すると、その教授が思いもよらない海外留学を勧めてくれたんです。「せっかく大学院に入ったんだし、もっと広い世界を見てきたら」って言ってくださったんです。
ー大学院に進学直後に留学という急な進路変更の決断ですよね、留学を決意された決め手は何だったんでしょうか?
そうですよね、当時、答えが出せない鬱々とした状態の私にその教授がこう言ってくださったんです。
「人生とは不思議なもので、目の前にある扉を一つ開けたら、思いがけない次の扉が回ってるもので、そうやって進んでいくんですよ」と。
この言葉に安心して、まず目の前にきた扉をひとつ開けてみようと留学を決めました。
教授には奨学金を取るための書類や手続きなども手伝っていただき、1年間の留学へ飛び立ちました。
目の前に開いた扉、常夏のフロリダ大学へ
ー進む道に迷い、視野を広げるためにフロリダ大学への留学、その体験はどんなものでしたか?
実は、留学初日に驚かされました。私は当然、研究者としてここに来ていると思っているので研究計画まで書いて現地の先生に見せたんです。
そうしたら「あなたはバケーションにここに来てるのよ」って言われたんです。留学を進めてくれた教授が私の事情を丸ごと事前に伝えてくださっていたんですよね。
本当に自分を見つめ直すための期間としてフロリダ大学を進めてくださっていたのがはっきりわかりました。
それならとことんバージョンをしょう!と思いっきり楽しみました。一軒家にルームメイト3人と犬2匹でルームシェアをして暮らしていました。大学の授業は週に1回で、それ以外はフリータイム、みんな自然が好きな方達ばかりで、庭でハーブを育てたり、一緒にお料理したり、ヨガをしたりと楽しみました。
コロナの影響で1年足らずの9か月で帰国したのですが、この留学での一番の収穫は「研究者の道はやめる」と決断ができたことです。
ーそうだったのですね!フロリダで自分を見つめなおす本当にいい時間を過ごされたのですね。具体的にはどんな気づきや心境の変化がおきたのでしょうか?
そうですね。そもそも研究者を目指すきっかけとなった「自然が好き」という感覚を取り戻したことが一番大きかったです。
花をみて綺麗だなと思ったらそれをそのまま素直に表現する、自分の心のままに自然を描写できるという感覚です。
もしかしたら、当たり前でしょと思われるかもしれないのですが、研究の視点がはいると自然との関わりが分析的で客観視になって、例えば「この木は一体どれくらいの窒素を年間吸っているんだろうか、どんな材料に適しているのかなど、それを数式に表わしたりなどする必要があるんです。
この視点でずっと関わっているうちに自分の心で感じていることがわからなくなってしまっていたのだと思います。研究することで自然への愛情を表現している方がおられますが、私は違うんだ、とはっきり自分を認められたんです。
ーなるほど、大平さんにとっては研究者の視点で関わると、ご自身の感覚に蓋をしてしまうことになっていたのですね。それが解き放たれて、ご自身の気持ちや感覚に素直になれたということなんですね。
そうですね!私は自然が好きで、自然とともに生きたい、自分が自然の一部として感じられるそんな仕事がしたいとはっきりわかったんです。
自然を愛し心からリスペクトする仕事との出会い
さて、研究者も大学院も辞めると決めてコロナ真っ只中に帰国した大平さんの目前に、教授の言葉どおり、思いもよらぬところから次の扉が訪れます。
フロリダから帰国して気持ちはすっきりしたものの、その後、具体的には何をするかは全く決めていなかったんです。そんなある時、たまたま今の勤め先である造園の作業風景がSNSで発信されていたのを見つけたんです。
時間もたっぷりあったので、ふらっとアポもとらずに現場に見学にいったんです。遠くの方から見つからないように見学しようって思っていたのですが、従業員の方、のちの先輩になるんですが、に会ってしまって、これはきちんと代表の方にご挨拶しなきゃと思ってメールをしたんです。
そうしたら興味があるならまたおいで、とメールをいただいて、何度か顔をだしているうちに「アルバイトする?」という話になり、そこで働くようになりました。
ーそうなんですね。自転車で1時間もかかる場所だったと伺いましたが、そこへ何度も通われて、その現場のどんなところが大平さんの心を動かしたのですか?
それが、一言でいうと「ピン」と来たんです。(笑)
その現場はお庭の造園だったのですが、みなさんが作業されて創られたその場所がとにかく心地いいな、と思ったんですよね。
ーさすが、自然の心地よさを肌でキャッチして、そこでされた仕事の価値を見出されてたのですね。その後、造園業で修行する道を選択し、造園を通して自然環境を改善するお仕事をされていますね。今、実際に師匠や先輩たちからどんなことを学ばれていますか?
そうですね。一言でいうと、師匠や先輩たちからは自然に対して謙虚でいることを学んでいます。例えば、人が手を入れて何か作業をして、それがうまく改善したとき「自分たちがやった」という風には絶対言われないんです。
自然の力でそれができた、と。
また、自然を観察される時にも、自然に対して本当に繊細で愛情深い眼差しをむけておられるのがわかります。自然が起こしている小さくて微かな変化も見落とさずに、空気や水の流れ、土壌の変化を捉えられていてる。謙虚だからこそ、この高いレベルの観察ができるのだなと思っています。
何より行う行為が「その土地のためにできることは何か」という純粋な動機からの行動なんです。私は造園や土壌の環境改善の技術だけでなく、自分自身のあり方も今の職場から全て吸収して学びたいと思っています。
ー進路に迷い悩み苦しんだからこそ、大平さんが心から望んでいた、自然に対して心から尊敬の気持ちを抱いておられる師匠とそのお仕事に出会えたのですね。素敵なお話をありがとうございました。
将来は富山に戻って、富山の自然環境を改善する仕事をやりたい、そう話す大平さん。
「目の前の扉を開け、懸命に取り組めば、次の扉が開かれる。」
目の前に現れるチャンスの扉、それをノックするかどうかはあなたの決意と行動力にかかっている。
そして、その扉を開けるかどうかは、自分の感じている気持ちに正直になる勇気が必要なのかもしれない。
2024年2月25日
ブログ「夢を語り仲間と一緒に叶えていく」私にとって会社はそんな場所。
終身雇用という概念がすっかり崩壊して正社員で働くことの価値が揺らいでいる現在。非正規雇用やパラレルキャリア、副業、起業など人生で輝ける場は仕事以外の場や時間で満たしてくという印象も否めない。でももし会社が心から自分を満たす場で会社が自分の夢や人生にチャレンジできる場であるとしたらどうだろう?
勤続20年、キャリアを積んで部長として活躍する光野瞳さんに働くことについて伺ってみました。
お名前:株式会社 Relations 光野 瞳
キャリア:高校時代のアルバイト→正社員部長職
公式サイト:https://relations.group/
高3で一人暮らし!バイト料を家に入れ自立した高校時代。
ー光野さん、今日はよろしくお願いします。光野さんは、今、仕事と子育て、家庭を両立させ、会社では部長職に就くキャリアウーマンですが、「仕事」を始めたのは高校生からと伺いしました。
それが、単なる高校生のアルバイトというより、高3でアパートを借りて一人暮らしして自立していたことに驚きです。早速ですがそれに至った経緯から教えてください。
はい。よろしくお願いします。人には「高3で家出」と語っているのですが、「自立」という見方もあるのですね(笑)
実は、私が小学生の時、父が怪我をして働けなくなり、そこから塞ぎこんで、母がパートで切り盛りする環境だったんです。
それで高校生になったらすぐバイトを始めて、月10万円稼いで家計に入れていたんです。
ー高校生のアルバイトで月10万円、時給も安いですし、この金額はなかなかの高額ですね。
そうですね。ファミレスとお寿司屋さんの2つのアルバイトを掛け持ちしていました。
実際、仕事をするのは楽しかったです。少しずつ仕事を任せてもらったり、お寿司屋さんでは自分が準備したお寿司をお客様が買ってくださるのが嬉しくて、充実感を感じていました。
ーそうなんですね。働くことでご自身が成長していくのが嬉しかったのですね。そしてついに高3でマンションを借りて、就職のための車をローンで購入し、完全自立を果たされていますね。
そうなんです、実は、実家には門限があったりして意外に厳しくて「自立して自由になりたい!」という気持ちが強かったんです。高3の夏には就職が決まったので、友人の親に保証人になってもらい、アパートを借りて、車も買い一人暮らしを始めました!
社会人の理想と現実のギャップ!絶望を乗り越えられたのは友人のある言葉だった。
ー高3で完全自立して精神的自由を手に入れた光野さんでしたが、社会人になってから数年間は落胆する現実を経験されたようですね。
そうなんです。正社員で働いても、生活費とローンの返済をしたら手元に現金1万円しか残らない、そんな現実を目の当たりにしました。自由に使えるお金が全くない・・。正直、楽しみといえば、休みとお給料日だけの生活が始まったんです。
この現実を変えるために、土日は休みでお給料やボーナスが少しでもいいところ、という条件で仕事を探して4年間で数回転職しました。
ーなるほど。そこからどんな風にして生活を変えていかれたのですか?
「将来にたいする夢や希望みたいなものがないな・・」と思っていた時、友人の結婚式で高校時代の友達に再会したんです。
彼女はとてもキラキラ輝いていて、私にこう言ったんです。
「自分に生まれてよかったっていう人生にできるのは自分次第だよ」って。
そんなことを言える彼女に惹かれて、彼女が働くエステサロンに通い始めました。お客として通い、仕事の相談にのってもらううちに、彼女が私にまた言ってくれたんです。
「仕事って誰と働くか、どの環境に身を置くかが大事だよね。」と。
そんな彼女の言葉にまたまた触発され、彼女と同じエステサロンに転職しました。
その後、彼女と今の彼女の夫となる方が、エステサロン会社を興され、数年後、私もその会社で働くことになったのです。
ーなるほど、そこからその会社の創業メンバーとして貢献され、キャリアを積んでいかれたのですね。
仕事をして輝ける理由。
ー光野さんは友人の会社に正社員として20年程勤務、現在、部長としてマネジメント業務をされています。その間、様々な危機的状態も乗り越えてこられたと聞きました。そんな光野さんからは「本当にお仕事が楽しい」というのが伝わってきます。世間は人手不足ですが企業の風土や価値観にあわないとか、色んな理由で離職率も高いと聞きます。
でも、光野さんからは一切にその正社員としての窮屈さが感じられない、それはどんな要素がそうさせているのでしょうか?
ありがとうございます。弊社は社員やスタッフの9割が女性なんです。そして会社の理念が「女性が自立し輝くこと」なんです。そして、スタッフの多くは実は「元お客様」です。お客様がお店のファンになってくださり、そのままサロンで働き始めるという流れが多いんです。
ーそうなんですね!お客様が働きたくなるほどのお店、会社って本当に素敵ですね。お客様が憧れて働きたくなる環境をつくっておられる御社が大切にしている価値観や考え方を教えていただけますか?
はい。一言でいうと、弊社は、「人」をとても大切にしています。
お客様を大切にし、サービスに満足していただくことはもちろん、従業員も大切する会社だと思います。その証拠に人材教育がとても充実しています。お客様に最高のサービスを提供するための技術やおもてなし、心構え、などマインド面で「人として成長していける環境」が整っています。
ー人が育つには時間がかかる、つまり結果がでるのに時間がかかるため、企業は早く確実に結果がでる方に投資しがちですよね。しかも、離職する可能性があるので、人材教育に時間をかけるのは、本当に人を大切に思っている企業でないと中々できないと思います。
そうなんです。業界の多くが立地や広告費にお金をかけるのに比べて、弊社は人の教育に大きく投資して売上を上げている点が一般的な店舗との違いだと思います。
例えば、エステ業界で当たり前の、立地重視、大々的な広告キャンペーン、低価格で集客、当日即決の値引きで回数権購入を進める一般的なエステ業界がするような戦略を一切しません。
でも、立地が悪く、高価格で勝負できなさそうな条件でも、丁寧な口コミでファンを増やして売上をあげることもできています。
売上はお客様の喜びの量に正比例するので、無理やりローンを組ませたり、即決の値引きや、結果重視のマインドでスタッフに仕事をさせていくと、ストレスや心を痛めさせたり、疲労させることもあります。そうではなく、本当に誇らしく誠実な仕事をすることで、働く幸せと喜びを感じる、だから条件が悪くても、お客様に愛されて成果がでていくんです。
ーすごいですね。スタッフが幸せで、お客様の喜びが自分の喜びと一致すると、お客様がファンになる。そうすると売上も拡大し、またお客様がスタッフにもなって会社を支える、成功した人材教育はこんな好循環の流れを産み出すことができるのですね。まさに多くの企業が知りたい本当の極意だと思います。
そうなんです。弊社では、人を育て集客と売上をあげる極意をプログラムにしてサロン事業者の方にお伝えする事業もしています。
会社は自分の人生にチャレンジできる場所。
ー改めて光野さんにお聞きしたいのですが、光野さんにとって「働く」とは、どんなことですか?
そうですね、いくつかありますが、人のお役に立つこと、人と人とのご縁を大切にできること、それに自分の器を広げることができることですね。私にとって会社は、夢や目標、ビジョンを一緒に叶える仲間がいるところだったり、自分の人生にチャレンジできる場所だと思います。
ー素敵ですね。ちなみに、光野さんの人生でチャレンジしたいことはどんなことですか?
3つあるのですが、一つ目は、社員がイキイキと働いてと夢、目標に向かって頑張る環境と叶えるステージをつくり続けること、二つ目は、サロンオーナー様の夢を叶えるお客様に必要とされるサロンづくりのサポートすること、、最後は弊社は海外への事業展開を計画していますが、それを成功させることです。
ー人生でチャレンジしたいことが、会社の仕事そのものであり、仲間と一緒に大きな夢を描き、一緒に向かっていけるというのは最高ですね。素敵なお話をありがとうございました。
「誰と働くか、どの環境に身を置くかが大事」
職業を選ぶ上で、仕事の内容や条件を基準にすることは幸せな人生に欠かせない要素だと思うが、「誰と一緒にいるか」を基準に考えることもとても重要。
それは「誰と」を考えた時、よくも悪くも、その人の価値観に影響を受けるから。
お互いがもつ価値観にお互い共感し触発しあって、共に成長していく。
人生で過ごす時間の中で最も長い仕事の現場で、それが叶う、そんな「誰か」と出会えることは人生からの最高の贈り物。
「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
2024年1月28日
ブログ65歳で起業ー人生の集大成として次世代を支える仕事がしたい
大学卒業後、就職せずにすぐに結婚、2人のお母さんに。嫁ぎ先の家業である酒屋のお手伝いが、ビジネスにのめりこみ、当時、珍しかったリーズナブルに楽しめるワインレストランを開業、たちまちTVや雑誌の取材を受けるほどの人気店に。その後、まだまだ先駆けだった婚活エージェントベンチャー企業へ就職し63歳まで務める。本当にやりたいことをみつけ65歳で起業し会社代表へ。
今日ご紹介するのは、常に時代の最先端をキャッチし社会が求めるものを提供する仕事をしてこられた長岡まりさんです。
現在は、設立された株式会社イトグチで、これまでの人生経験を全て集約した40代.50代女性の人生をサポートする1on1コーチングセッションサービスなどを提供されている。
「目の前に来た流れに身を任せる人生でした」と語られる長岡さんですが、だからこその、今、伝えたいことがあるという。
長岡まりさんの人生と経験された多くのキャリアから、今、あなたが必要なメッセージを受け取っていただけたら幸いです。
お名前:株式会社イトグチ 代表取締役長岡まりさん
キャリア:家業(社員)→アルバイト/派遣社員→正社員→起業
サイト:https://itoguchi.hp.peraichi.com
48歳で離婚、上京し派遣社員やアルバイトをし50歳をすぎてベンチャー企業へ就職
ー嫁ぎ先の家業に専念されて仕事も順調な時に離婚を決意されたようですが、その時のご経験をお話し頂けますか?
はい、当時は仕事に没頭していていました。ただ、46歳くらいから更年期障害の症状に悩むようになり、身体の変化だけでなく、心の波、不安定さを感じるようになりました。
ふとした拍子に「私の人生はこれでいいんだろうか?」という考えが浮かび、それまでは考えたこともなかった今の人生への迷いがでてきたんです。
夫婦関係は随分前に破綻しており、別居もしている、でも、仕事も楽しい、お客様やご縁もいただいている、今、やめるわけにはいかない、と、葛藤がありました。でも「私の人生をこれで終わらせたくない」という想いが日々募ってきて、離婚して新しい人生へ進む決断をしたんです。
ー更年期障害がきっかけで、正直な心の声を聴き、大きな決断をし、人生を前へ進ませた訳ですね。
そうですね。この決断は、これまで、なんとなく流れで結婚し出産、仕事をしていた私が、初めて自分の意思で自分の人生を生み出すことでした。
ーなるほど、された決断の意義深さを感じます。その後、派遣業やアルバイトを経て、ベンチャー企業へ就職、次のキャリアへ進まれましたが、離婚された長岡さんが選んだお仕事が婚活をサポートする仕事というのも興味深いです。
婚活エージェント業、保育園の新規立ち上げてを経て、65歳で女性のキャリアをサポートするビジネスで起業
ー今から20年前の婚活ビジネスは認知度も信頼度も低い中、その業界の又、ベンチャー企業をを選ばれたその理由を教えていただけますか?
そうですね、離婚した私ですが、結婚のパートナーシップや家族関係は素晴らしいと思っていましたし、何より離婚したときの喪失感や孤独感を経験して「人が幸せになるお手伝いをしたい」と思って、婚活エージェントの会社を選んだのだと思います。
2006年当時、「婚活は恥ずかしいもの、影でこそこそやるという」イメージがあり、こんなにも社会に求められているのになぜ?と疑問をもっていました。
そんな時に、のちに正社員で就職することになったベンチャー企業の社長に出会ったんです。婚活エージェントの社会的意義を明確に示して「堂々と婚活しています!」と言えるカルチャーを社会につくるという理念にとても共感しました。
ーなるほど、ありがとうございます。その後、60歳で保育士の資格を取り、保育園の設立に携わっておられますね。どういう経緯でのキャリア転身ですか?
そうなんです。会社はその後上場し大きくなっていきました。すると今度は社内で女性社員の出産や産後の復帰の課題が浮上してきました。待機児童の問題がマスコミでも騒がれていたタイミングでした。
当時は、一民間企業が保育園を設立するのは、前例も少なく、とても困難でした。そんな中、世論に押され、内閣府が新しく作った制度の「企業主導型保育園」制度を使って、保育園を作ることができました。この制度を使った全国で第1号保育園を当社が作ったのです。私はその責任者でした。
ー第一号店の設立とは素晴らしい功績ですね。長岡さんの会社が次の保育園設立のモデルにもなられたようですね。そして、この保育園の運営時代に、長岡さんの今後のキャリアに繋がる女性の実態を目の当たりにされたと聞きました。
そうなんです。お母さんたちの切実な悩みに数多く触れました。子供を産んだことでこれまでのキャリアを失ざるを得ず、葛藤されている方、シングルマザーや仕事と家事、育児に悪戦苦闘される方の訴えに近い悲痛な声を聞くたびに、これは個人の問題ではなく社会課題だと感じるようになりましたね。
そして、その心に寄り添いたいと感じるようになりました。
大きな喪失体験がくれた「私のミッション」
一人―一人の中にある心の呪縛を取り除いてあげたい。
ー実は、長岡さんは大切なお嬢さんを鬱で亡くされています。この出来事から精神的に立ち直るだけでも、本当に大変だったと思うのですが、だからこそ、今、新しい目標を掲げて、前進されています。その思いや経緯をお聞かせてください。
はい。娘が亡くなったのは63歳で退職するタイミングでした。娘は出版社に勤めていたのですが、仕事の忙しさや様々なストレスから心を病んでしまって、何年も鬱で苦しみました。最後は、薬の過剰摂取で突然亡くなってしまったのです。
ーその状態から心を整わせ、ご自身の使命を見つけ、人生を前へ進めていけたことのは、どんな要因や助けがありましたか?
私は8年間心理学やコーチングをずっと学んできたのですが、この時は、9日間の自己探求の合宿に参加しました。1日、8時間、自分自身と向き合い、この出来事が私に与えた意味は何か?私はこの人生をどう生きたいのか?自分に問い続けました。
私が人生の終盤に、次の世代のためにできること、全力でやれること、それを深い自己対話の中で見つけ出せました。
ーその答えが、今、ご提供されている自分とトコトン向き合う時間を提供する『トコトン・ダイアログ®』1on1対話セッションサービスだったということですね。
そうです。これまで、婚活サポート、保育園の立ち上げに関わってきて、人生の悩みや迷いが多くなる40代以降の女性のキャリアや人生そのものをサポートしたいと思っています。
今は女性が働くことは当たり前の時代、でも、今の働く女性は参考にしたい先輩モデルがいない世代です。世代です。親のほとんどが専業主婦で、仕事と子育て、介護を両立してきた前例が少ない中で、そんな働く女性のために社会のサポートが物理的にも精神的にも全く整っていない、そんな中で進んでいかなければならないんです。
それが女性たちを追い詰め苦しめてしまっています。
ただ、私が考える一番の苦しみは、母として、女性として「こうあらねばならないという心の呪縛」だと思っています。
本来は一人一人、違って当たり前なのに、まわりの概念で「こうあらねばならない」によって、その人自身の本当の心の声がかき消されてしまいます。
その呪縛を対話を通して解いていき、自分の答えを軸にした生き方をサポートしていきたいと思っています。
ーこれまでお話をお聞きして、長岡さんが切り開かれたキャリアの中に一貫して見えるのが人に対しての愛情です。嫁ぎ先の家業でワインレストランを立ち上げられたときも、保育園立ち上げに奮闘されたときも、常に、目の前の人に喜びを与えたい、苦しみを取り除いてあげたいという想いから動いて、その結果、今に至るキャリアをしっかり培っていかれたのだと思いました。
また、仕事以外で学ばれてきた心理学が、ご自身の人生の要所要所で助けとなり、最終的に、人生の集大成としてのお仕事に繋がっている点にとても感動しました。素敵なお話をありがとうございます。
人間万事塞翁が馬
一見、不運に思われることが幸運につながったり、その逆だったりする。
幸運か不運かは容易に判断できない。
これは中国の諺ですが、この言葉が人生を支えてくれた、と長岡さんはいいます。
人生で起きた不運と思える出来事、それを受け入れていく中で、自分の生まれて生きた意味を知り、その人生を生き始めることができる。これもまた、この諺、そのものを体現してます。
人は何歳からでも、どんな経験も糧となり自分次第で自分のキャリアをつくっていける。
自分の心との深い対話は、自分自身を救い、働く喜びだけでなく、生きる喜びをくれる確かな時間になる。
働くことを考えることは、どう生きるのかを考えることなのかもしれない。
「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
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2023年12月26日
コラム副業は自分探し!心に隠したピュアな願いを叶える人生を届けたい。
パラレルキャリアとは、報酬の有無に関係なく「人生を豊かにするもう一つの活動」を本業と並行して取り組む活動のこと。
人はそれぞれのライフステージで自分の働き方の見直しを迫られることがある。
今日ご紹介する白鳥舞さんも出産という人生の大イベントでキャリアの見直しを余儀なくされた一人。
でも、だからこそ、自分らしい働き方や、自分の新しい能力を開発し、自分や家族にとって一番幸せになる働き方と見つけ、今、パラレルキャリアを楽しまれている。
「副業こそ自分探しに最適である」
といわれる白鳥さんのお話から、働くことと自分らしく生きることを一致させていく方法を発見していきましょう。
お名前:白鳥舞さん
キャリア:正社員→転職→正社員と副業(パラレルキャリア)
副業:Iクリエイト
https://mymaimarimo0123.wixsite.com/i-create
副業のきっかけは出産後の鬱になったことだった。
ー白鳥さん、今日はお話よろしくお願いします。白鳥さんは副業ができる会社で正社員と副業のパラレルキャリアで人生の充実度をあげていると伺いました。そして副業を始めるきっかけが前職の会社員時代に鬱を経験されたとのこと、まずはその経緯からお聞かせください。
はい。ありがとうございます。
今は、人材系の会社ですが、前職は飲料メーカーでマーケティングの仕事をしていました。そこでは、商品開発をしていたのですが、産休から復帰した時に、仕事、子育て、家庭の両立ができず、鬱になってしまったんです。謝ってるばっかりの毎日で自己否定のどん底だったんですね。
ーそれは大変でしたね、謝ってるばっかりの毎日とはどんな感じだったのでしょうか?
子供の熱が出たら休まざるを得ない、どんどんと仕事にはついていけなくなる、それで周りに迷惑をかけてしまう。また、保育園ではお迎えが遅いママになり先生に謝る。家庭では夫は協力的でしたが、彼はこんなに頑張って家事・育児・仕事を両立しているのに、私はこなせていない、ともう全てが自分へのマイナス評価となっていきました。
ーその環境での子育てとの両立は壮絶ですね。ところが、白鳥さんは、鬱をきっかけにご自身が心からやりたいこと、オリジナルサービスを考案されて、それを仕事にするようになったのですね。
そうなんです。本当に自己否定ばかりして鬱状態のプロセスがあったらこそのオリジナルのサービスなんです。前職で働きながら、副業のきっかけとなるサービスを無償で提供し始め、その後、副業が許可されている今の会社に転職し、今は、副業にさらに力を注いでいます。
職場で学んだことがそのまま副業のサービスに
ーそれでは、今、副業でされている、どん底で鬱状態だったからこその白鳥さんオリジナルサービスはどんな風に見つけていかれたのでしょうか?
はい、前職のマーケティングの仕事そのものが活かされました。マーケティングでは、ある飲み物の売上が下がっている時に「この飲み物はどういう人になら幸せを感じてもらえるんだろう」とか、「その人にこの飲み物を届けるとしたら、どういうパッケージにして、どう見せたらこ飲み物の良さが引き出されるんだろう」と、毎日、毎日、飲み物とそれを欲しいと思う人のことを考え続けるんです。私は本当に仕事が大好きだったから、没頭して突き詰めていたわけなんです。
そして、出産後、落ち込んでいた時、「私、こんなに飲み物のことばかり考えてるけど、自分にもこれをしてあげた方がいいんじゃない」と、ふと思ったんですよね。
飲み物と同じように、自分のことを客観的に分析しようと、自分の特徴をひとつひとつ書き出してみたんです。
自己卑下と劣等感に苛まれていた私だったのですが、少しずつ「私と一緒にいていいって思う人はきっと世の中にいるはずだ」と元気になっていったんですよ。
マーケティングって客観的にいろんな方向から商品をとらえて、商品の強みや弱みを分析します。そして欲しいと感じている人のために良さを最大限引き出すことをしていくのですが、それを自分自身にしてあげたんです。
そして、元気になって鬱から復活したとき、私と同じようにマイナス面にどっぷりはまっているママたちに、自分のことをいい悪いの価値判断をせずに、その人のありのままの魅力を引き出したいって自然に思えていったんです。
ーなるほど。それが白鳥さんオリジナルサービスとなって、今の副業メニューになっていたんですね。
そうなんです。SNSで無料のコミュニティを作って盛り上がり、対面のイベントをやろうとなり、さらには、もっとじっくり話を聞いてほしいっていう人には個別でセッションするという風に段階的に進んでいきました。
ー最初は無料提供だったものを有料にしていったのはどんな経緯でしたか?
最初はお金を頂くなんて思ってもいなくて、ただただ夢中になって活動していました。対面のイベントや個別セッションとなっていった時に、子供をベビーシッターに預ける必要性が出てきて、ベビーシッター代をいただいてサービスを提供するという価値の交換でお互いのニーズを埋めていきました。
ーなるほど、本当にご自身の想いありきで、それが周りのニーズに後押しされ自然に展開していかれたんですね。最初から気負ってやることもできますが、白鳥さんのような想いから始まりそれが副業になっていく、そんなやり方もあっていいんだと思えます。
副業は最適な自分探し
ー白鳥さんは、その後、飲料メーカーから副業が許可されている人材系の会社に転職されて今に至るわけなのですが、転職時はどんな心境の変化があったのでしょうか?
そうですね、副業の方は、本当にワクワクして、ちょっとした隙間時間もそれに充てるという毎日で、鬱がふっとび、とても充実していきました。そして、マーケティングの仕事も好きでしたが、人の人生をもっとサポートしたいなという気持ちが大きくなり、人材系の会社に転職しようと決めたんです。
また、前職ではママであることがネックになるように感じていましたが、新しい職場では成果を出しているママ社員や女性の管理職も多く、自分の中にあった仕事観や「こうあるべき」というスタイルが自然と変わっていきました。
ーこのお話を伺うとどの会社がいいとか悪いとかではなくて、自分のライフステージによって自分を活かせる職場を自分が選んでいくというのが一番幸せな働き方に繋がるのだなと感じました。その中でも、自分が何をやりたいか?が明確であればある程、それを満たせる環境を手に入れやすいですよね。白鳥さんの例がその成功例のような気がします。
そして、今、新しくチャレンジしたいことがおありのようですがそれを伺ってもいいでしょうか?
はい、今後、副業を本業にして本格的な起業を検討しています。
ーなるほど、勇気のいるチャレンジですが、どんな理由からそう思われたましたか?
今は、正社員でいながらも副業も堂々とできるという恵まれた環境にいますが、いつも「時間がない」という悩みが尽きないのも正直なところです。子供との時間を十分にもてていない感覚も絶えずあります。
それと一番の大きな気持ちの変化は、数か月前に大きな病気の疑いがあって、結果は病気ではなかったのですが、その時に「時間って命そのものだ」とありありと感じたんです。
その時に「人生で本当にやりたいことって何?」と問うた時、副業の「人が自分らしい人生を生きるサポートをやりたい!」と瞬時に答えがでて、ここまで自分の心の声がはっきり聞こえているなら、その願望を叶えてあげたいと思い始めました。
ーなるほど。鬱や病に向きあうプロセスを経て、ご自身の命の声がはっきりと聞こえてきたということですね。では、最後に、これから副業を始めたい人に伝えたいメッセージはどんなことでしょうか?
そうですね。私は副業ほど「自分探し」に最適なものはないんじゃないかと思っています。
仕事は生活の土台なので、正直、自分の好きなことが最優先ではなくて、条件だったり安定性も大事な要素になってくると思います。副業は安定したお給料の中で「自分が一番したいことは何だろう」というのをストレートに問うてチャレンジできるものだと思います。
ーなるほど、副業を通して、自分が本当にしたいものは何か?を見つけていく自分探しになるんですね。副業に対する考え方はいろいろありますが、白鳥さんの実体験からのアドバイスが、これからやりたいことを見つけたい人への確かな勇気づけになることは間違いないですね。今日は素敵なお話をありがとうございました。
「戦わないマーケティング」という電子書籍を書かれている白鳥舞さん。
競合他社に打ち勝つためにどう差別化を計り戦略をたてていくのか?というマーケティングは商品の販売には有効だけれど、一人一人の人生には必要ない。けれども、いつしか周りと比較し優劣をつけ自分自身を敗者にして傷つけてしまったっていた。
その挫折経験から独自のマーケティング視点を「人の人生に提供すること」を始められた。
それは一人一人、唯一無二の存在としての魅力があり、自分自身が必ず誰かの人生の役に立ち、お互いに癒しあい、勇気づけあうことができる。誰とも競わず、無理して好かれようと頑張ることもなく、一人一人そのままが素晴らしい、だからマーケティングは愛なんだ、を伝えたい。
「魂の使命を生きたいなら、余計なもの取り払って、そのピュアな願いを叶える人生にしてほしい」
と、生き方に迷う人たちに生きる方向を示す使命を生きておられる。
今後、ますます多様な働き方、生き方が容認されていく時代。
あなたが望むなら、唯一無二の自分らしさを見つけ、他と比較することのない人生を選択できる。
そして、それはどんな経験からでも、また、今、どんな経験をしていたとしても、それを発見して変えていける。
白鳥さんの生き方とキャリアからその希望を受け取りました。
「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
2023年11月27日
ブログ国際協力で訪れたモロッコの小さな村から教わった「幸せと豊かさの源泉」
今日ご紹介するのは、モロッコと日本を繋ぐ女性起業家カモチリナさん。
DAR AMAL(ダール・アマル)アラビア語で希望の家という意味をもつブランドを立ち上げ、モロッコ女性が手で紡ぐ刺繡をバックにして日本で販売するエシカル事業をされています。
2010年、国際協力機構(JICA)の村落開発普及員として訪れたモロッコの村で、村の女性たちの雇用を創出する活動をスタート。
2年の任務を終えた後、本格的にエシカル事業で起業されました。
そこから10年、様々なイベントに出店し多くのお客様に商品を届けておられます。
そんなカモチさんが仕事をする上で一番大切にしているのは
「自分の心に正直でいること」
事業をしていると「いかに利益があがるか」に焦点をおきがちになるが、カモチさんは「自分の心が大切にしている価値観に沿っているか」を基準にして、今の事業を長く続けることを一番優先しているという。
最初の動機は国際協力という現地を救済する目的で訪れたモロッコ、そのモロッコから「かけがえのない大切なもの」をたくさんもらっていると語るカモチさん、数々の困難がありながらも、今、彼女の事業を支えているものは一体何なのか?
カモチさんのキャリア、生き方を通して、あなたの心に、本当に大切にしたいことは何か?という問いが生まれることを願っています。
お名前:カモチリナ様
屋号:https://www.dar-amal.com/
キャリア:自営業→会社員→JICA(モロッコ派遣)→起業
マザーテレサをリスペクトする母の教えが影響し国際協力事業団の派遣でモロッコへ
ーカモチさんが今のエシカル事業をされるようになったのは国際協力機構*(JICA)(*以下JICAと省略)の活動がきっかけと伺いましたが、そもそもJICAを志望する動機、原点は何だったのでしょうか?
私は高校生の時にジャーナリストになりたい!と思っていたんです。自分が知らない国の人達の「声なき声を届けたい」という思いがありました。その原点は何かを振り返ると、やはり両親の影響が大きいと思います。
父は仕事で海外に行くことが多く、現地の知人が私の実家に来たりと私にとって幼少期から海外は身近でした。また、母はマザーテレサが好きで、自分のことだけを考えた行動をとるのではなくて、いつも全体のことを考えて行動するということを肌で学んでいたのだと思います。
ージャーナリストの夢をもたれ、複数のお仕事をされた後、JICAを志望されていますね。これは自身の想いや目標をそのまま実現させた、というより紆余曲折があったようですがどんな流れだったのでしょうか?
実は、高校で海外留学をしていて、そのまま大学に編入してジャーナリズムを学ぼうと思っていたのです。でも、2001年アメリカで起きた9.11のテロの影響で日本に帰国することになり、留学の夢を断念したんです。そこで目標を見失ってしまって、アパレル職についたり、会社の事務仕事をしたりしていました。
でもたまたまJICAの活動を終えた人に会うことがあり、再び、自分の中に眠っていた「遠い国に住む誰かの声なき声を届けたい」という想いが呼び起されたんです。
ーなるほど、当初は中央アフリカに行きたいという気持ちが強かったと聞きましたが、最終的にモロッコへの派遣になったようですね。派遣された当初から雇用創出のサポートをしようとか、何か計画はお持ちだったんでしょうか?
いえいえ。JICAの「コミュニティ支援」というカテゴリーで赴任したのですが、そこで何をするかは全く決まっていなくて、何をしてどう過ごすのかは全て私に任されていました。
モロッコの小さな村ムーレイイドリスに1人送られ、最初は村長の家に住まわせてもらい、そこから自分の家を探して、そして少しずつ村に馴染んでいくという本当に0からの活動でした。
ーすごいですね。全く素地がないところから一人で作り上げていくのですね。一番大変だったことは何でしたか?
いろいろありましたが、やっぱり言葉ですね。当初、フランス語が通じると思っていたのですが、話せるのは村長くらいで、殆どの村人がアラビア語だったんです。言葉も通じないところから、村の課題やニーズに耳を傾け、私ができる支援や協力を少しずつ探していきました。
そこで見つけた大きな課題が、村の女性達に仕事がない、つまり現金収入がないことでした。お金がないので、町へ行くこともできない、教育の機会も創れない、だからいつまでたっても仕事がない、そんな悪循環がありました。
そこで現地の女性達の伝統刺繡の技術で雇用を生み出すことを始めていったんです。
そして、もうひとつの課題は、彼女たちのつくった商品は安く買いたたかれていて搾取されていました。
雇用の創出と、正当な対価で仕事をする、というのがこの事業の根幹となりました。
だから、最初の商品は、モロッコ国内に駐在する日本人や外国人に販売したのですが、その時、初めての売上(現金)を手にして、村に帰った時のことは忘れられません。
ー今のお話で仕事で正当な対価を得た喜びが、彼女たちにとって、どれほどのものだったのか、が容易に想像できますね。そして、2年のJICA任務が終わった後も、村の女性達と一緒に事業をすることを決意され、そこからモロッコと日本を行き来する人生が始まったのですね。
創った商品を販売し売上にコミットすることは、事業を成功させる上で当たり前に重要ですが、カモチさんの場合は、現金収入のあてがない村の女性の生活を背負うという大きな責任を意味しています。
その重責を負いながら、1人で日本とモロッコの架け橋になり10年も継続されているその原動力は一体何なのか、それを次の章で伺いたいと思います。
事業7年目の裏切りと大きな挫折、それでもモロッコの村を支援したい理由
ー事業が軌道に乗りかけた頃、村の女性の横領が発覚する事件が起こったそうですね。「もうモロッコに戻りたくない」くらいのショックで、事業も途絶えていたかもしれない大きな出来事だったと聞きました。裏切られた精神的ショックから再び立ち直り、事業を継続される決断の理由を教えてください。
そうなんです。事業をスタートさせて7年経った時、実の妹のように可愛がっていた女性グループのリーダーの裏切り行為が発覚したんです。それが私個人のものではなく、村のみんなに配るお金で、事業をスタート当初から7年、ずっと続いていた事実を知り、あまりのショックで、本当に立ち上がれなくなるくらいでした。
現金収入のなかった暮らしに「お金」が登場したことで、お金が人を変えてしまったことも自分のやってきたことの正しさが問われる気がして落ち込みました。
一旦帰国し、もう辞めようかと思っていたのですが、モロッコに家があり、それを整理する意味でも、もう一度、モロッコに帰ったんです。
事件のことは信頼できる女性2人にしか話をしておらず、村の殆どの女性たちは、何が起こったのか、なぜ私が体調を壊して日本に帰ったのか真相を知りませんでした。
モロッコに帰った私に、事件のことを知っていた女性2人が、こう言ってくれたんです。
「もし、リナがこれから新しい未来を選択して次のステップに進むというなら私たちは止めない。でも、今は去らないで欲しい。こんなにリナを酷い気持ちにしてしまったままだと、もうリナは2度とモロッコに帰ってこれなくなる。だから、もう一度、私達にチャンスをくれないか」と、真摯に頭を下げてくれたのです。
彼女たちが事件をおこした訳でもないにも拘わらず、自分たちの責任として私を気遣い謝ってくれたのです。
ー本当に心が温かくなりますね。リナさんがいなくなったら自分たちの生活がたちまち困ってしまう、でも、それよりもリナさんのことを一番に思っていることが伝わりますね。
そうなんです。私は女性達のこの優しさにいつも包んでもらっていて、それにお返しをしたい気持ちで事業を続けてきました。
今回も彼女たちの懐の深い寛容さと愛情に救われ、またこんな彼女たちの力になりたいと、再びコミットしなおしたんです。
10年続けることで生まれた新しい夢
ーカモチさんの発言の中に「村の女性達にお返しがしたい」という言葉がよく出てきます。それは何に対するお返しなのでしょうか?
それはムーレイイドリスの村の人たちがくれる愛情に対してなんです。
モロッコの村は、日本では想像できないくらい食料や、物がありません。
そんな状態でも、村の人は私を見かけると、貴重なパンや卵を私にたくさんわけてくれるんです。私の方がお金を持っているにも拘わらずです。町で買った食材があるからって言って断るのですが「こっちの方が栄養があるから・・」と私にたくさん持たせてくれるんです。
本人たちも余裕がないのに、思いやりから私に与えようとしてくれる、私はその想いをたくさんたくさん貰っているんです。
ー同じ与えるでも余裕がある中での行為と、そうでない状況での行為にはその価値の重みが全く違いますね。
そうですね。私は日本にいた時にいつも違和感を感じていたんです.。社会にはびこっている理不尽さみたいなものに対して、どうして優しさで解決できないんだろうと思っていたんです。
でも、モロッコの村では、みんなが助け合ったり、親切にすることが、当たり前で、私はいつもそれに救われているんです。
ーカモチさんの人生で大切にしているものは「人の純粋さ」に触れるということなのでしょうか?
もしかしたら、リナさんが小さい頃から人の純粋さという宝物を社会の中に見つけだしたかった、それが日本ではなくモロッコで見つかった、そんな印象を受けました。
そうかもしれません。村のみんなからその大事なものをいつも貰っていて、それに対してお返ししたいという気持ちが今の事業が続いている一番の動機です。
ーカモチさんの事業は、モロッコの村の女性達とお互いに想い還元しあいながらの共同事業なのですね。本当に素敵です。最後に、これからの夢、ビジョンを教えてください。
ありがとうございます。10年経って、私の活動をいろんな場面で紹介していただき、講演を行う機会が増えました。
そして、私の話を聞いてモロッコに来てくださる方が出てきたんです。
現地に来られた方が、村のみんなに触れ、そしてムーレイイドリスの綺麗な景色を見て涙を流されるんです。
きっとそれぞれその涙の理由は違うのだと思いますが、言葉にできない何かがそれぞれの心の琴線に触れ、感情が溢れ出すのだろうなと思っています。
日本からモロッコへという道筋をつくることで、物にあふれている日本人が物の少ないモロッコの村で新しい価値を見つけるそんなお手伝いができるのではないか?と思っています。
ー素敵な未来のお話を本当にありがとうございます。カモチさんのお話を聞くといつかモロッコに行ってみたいと心が揺さぶられます。それはモロッコの女性達の愛情やモロッコの文化や精神性が届くからであり、モロッコの魅力と価値が商品を通して伝わるからなのだと思いました。
モノがない国で
豊かだと感じるのは
なぜだろう
おなじ空の下
視点を変えることで
見える世界が変わることを
お伝えしています。
このメッセージはDAR AMAL(ダール・アマル)のサイトに掲載されている言葉です。
国際協力というと、物質的に豊かな国が貧困国に対してサポートするという構図があり、そこで「与える側」と「受け取る側」が出来上がってしまうと、パワーバランスが少しフェアではないイメージがあります。でも、カモチさんとモロッコの女性達との共同事業は、モロッコの女性に対する心からのリスペクトと感謝の気持ちから事業が成り立っている、これこそ、言葉どおりのフェアトレードなのだと感じました。
事業を大きくすることが目的でもなく、モロッコの女性の「純粋さ」が商品を通じて人の心に届くこと、これがカモチさんの仕事をする上でのぶれない基準点。
自分の生き方、豊かさや幸せの価値観は自分が決める。
モロッコの小さな村から始まった純粋な物語が、働き方や人生そのものに迷う多くの人を勇気づけていくことでしょう。
「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
2023年10月30日
ブログ人生の扉は自分で叩き、自ら開く!ードイツ留学で得た人生哲学を実現するサッカーコーチ
一般社団法人伊勢原FCフォレストを設立し代表を勤める一場 哲宏さん。
小さい頃からのサッカー好き、好きをそのまま叶えサッカーのコーチングを学ぶためにドイツへ海外留学。その留学先で心底実感した「自分の人生の扉は自分で叩き開くんだ!」という考え方が基礎となり、その後のキャリア形成に大きく繋がっていったとのこと。
ドイツ、イギリスでサッカーコーチ・体育コーチを経験後、帰国。
世界で活躍するサッカー選手を輩出したサッカークラブチームのコーチとして活躍。
2019年、サッカーを通して子供たちが自分で考えて行動できるようになるというコーチングマインドをベースにしたサッカースクール伊勢原FCフォレストを設立。
望むビジョンに向かって未来の扉を自ら切り開き、今も挑戦し続ける一場哲宏、通称哲ちゃんのサッカーコーチの道をご紹介します。
キャリアーサッカースクール経営者
一般社団法人伊勢原FCフォレスト代表公式HP:https://ifc-forest.com/
お名前:一場 哲宏
職歴&キャリア:日本体育大学、ドイツケルン体育大学留学、ドイツでコーチング、イギリス幼稚園体育講師、湘南ベルマーレサッカーコーチ、一般社団法人伊勢原フォレスト設立
人生の転機はドイツ留学ー孤独と苦悩からの限界突破から得た「人生哲学」とは
ー一場さん、今日はよろしくお願いします。サッカースクールの子供たちからも「哲ちゃん」の通称で呼ばれているようで、こちらでも哲ちゃんと呼ばせていただきます。
哲ちゃんの人生を語る上で欠かせないのが4年間のドイツ留学と伺いましたが、留学の経緯や人生の転機となったエピソードを教えてください。
ありがとうございます。
そうですね。僕は日本体育大学の学生だったんですが、大学の交換留学でドイツケルン体育大学に留学しました。
ドイツはサッカーのコーチングメソッドがとても体系的に学べる環境が整っていて、コーチを目指すならドイツで学びたいなとぼんやり考えてたところ、たまたま交換留学できる情報をキャッチしたんです。
それで、ドイツ語も喋れないままでしたが、その環境に飛び込みました。
向う見ずに飛び込んでいったドイツで、最初はとても苦労しました。
言葉が喋れない僕は当たり前ですが無口ですし、喋れない劣等感から引っ込み思案になってしまって、サッカーコート場で委縮したプレイヤーになってしまったんです。
当然、そんな僕にはパスも回ってこない、だから活躍もできない、チームに貢献できない、よけいに引っ込み思案になるという負のスパイラルにはまっていました。
日本人って話さなくても「相手の様子を察する文化」がある、だから、もし日本で同じ状態だったら周りがそれを推しはかって仲間に入りやすいようにするとか、自分から主張しなくても周りが馴染みやすい環境を作ってくれたと思うんです。
でも、主張しないと伝わらない文化の国ではこの日本人の価値観が全く通用しないんですよね。
ドイツ人の価値観は「人をそのままをリスペクトし大切にする」なんです。
だから、僕がおとなしくして黙って全く自己主張しないと、その状態のそのままをリスペクトしてくれるんです。
「お前はそういう風にしていたい人なんだろう」と認識して、そんな人には声をかけないし、無理に変えさせようとしない、それが彼らにとっての人へのリスペクトの方法なんです。
それに気づかない僕はしばらくは孤独の中、過ごしていました。
でも3か月くらい経った時、精神的に切れてしまったんです。
練習中のコートで「お前ふざけんじゃねーよっ!俺はここにいるんだよ!なんでここにいるのにパス出さねえんだよっ」ってブチ切れて叫んだんです。
それはコート中をシーンと静まり返らせるほどでした。(笑)
キレて日本語で叫ぶ僕をみて、彼らはもちろん何言ってるのかわかっていないんですが、でも「日本人の哲が自己アピールしてる」っていうのは伝わったんですよ。
そこから彼らが僕がチームの一員になりたがってることを理解してくれて、ようやくパスが回ってくるようになったんです。
この経験が僕の人生を変えてくれました。
「なるほどそういうことか。自分の人生は自分で切り開かなきゃいけないし、やって欲しいことがあったら自己主張しなきゃいけない。やりたいことがあったらドアの前にボーと突っ立ってるだけじゃダメなんだ」と、心底、痛感したんです。
でもこれは、逆に、自分で扉をノックすれば、それは必ず開けるってことなんですよね。
日本に帰ったら、このことをサッカーを通して伝えよう、それを伝えられるコーチになろうと決めたんです。
ー留学中にした自身の限界突破の経験そのものが哲ちゃんの人生哲学となったのですね。言葉が通じず、価値観も違う国でチームプレイをすることを想像すると、その孤独感や精神的プレッシャー、ストレスがどれほどのものなのか想像できます。
でも、そこで勇気をだして自己変革した実体験が「自分で考えて行動できる人になる、人生を自分で切り開く責任をもつ」というサッカーコーチとしての教育の原点となられたのですね。
クラブチームの一コーチから経営者へー伊勢原フォレストの設立とその想い
ー今、代表をされている一般社団法人伊勢原フォレストは2019年に立ち上げられていますが、そのきっかけは何でしたか?
実は、以前勤めていたサッカースクールの方針が大きくが変わったことがきっかけでした。
僕のコーチとしての哲学はさっき紹介してれたように「子供たちが自分で考えて行動する」ということですが、トップが変わったことで、全くその逆の勝利主義の指導方針になったんです。
いくらトップが変わったからといって、この指導方針で子供たちに関わることはどうしても出来ない、出来ないならば自分で立ち上げて自分の哲学を実行するしかないと思ったんです。
ーご自身の信念を貫くための独立だったのですね。ただ、そうは言ってもコーチとして雇われている状態から経営者になるというのはやはり勇気のいるご決断だったと思います。
それでもご自身の哲学「子供たちが自分で考えて行動する」を貫くことの原動力はどこから来ていますか?
それはですね、「子供の可能性は無限大」だからなんですよ。
子供の可能性は無限大でそれを最大限引き出す指導をすることは、教育の本質でもあり教育現場ではよく言われ、逆に、ある意味ありきたりなことだとも思います。
でも、僕はこのことを心底信じているんです。
そして、大人や指導者がこれを信じて関わることで何百人という子供が驚くほどに変化していった、この事実をたくさん見てきたんです。
ー人の可能性を信じている、というのは本当に偉大なことですね。
「相手を信じる」と口にして言うことと、「本当に信じている」ことは大きな違いがあると思います。
哲ちゃんのこの一言はシンプルですけど「本当に信じている」というのがダイレクトに伝わってきました。
ありがとうございます。
子供とこうやって関わりたいと考える原点はドイツ留学の影響もありますけど、もっとその前に両親が僕に対してしてくれたことも大きく影響していると思います。
中学の時、僕は反抗期が激しくて両親を殴ったり外で暴れまくったりと、今、思えばとんでもないクソガキだったんですよ。でもそんな僕でも両親は「信じて見守る、信じて待つ」ということをやってくれたんだなって思うんですよ。
当時は全くわからなかったけれど、今、振り返るとそうだったんだろうなと思います。
だから僕はサッカーを通して子供たちを信じて関わりたい、という想いがあるんだと思います。
ーなるほど。このゆるぎない想いがご自身で独立して事業を立ち上げる強い動機とエネルギーになっているのがよく伝わってきます。
そして、哲ちゃんが両親から受けた愛情が、今のスクールに通う子供たちへと継がれいっているのを見ると、教育とは方法ではなく「あり方」や熱意が何より重要なのだなと改めて感じます。
使命は「人と地球を癒して未来の子供達に渡す」
ー最後に哲ちゃんのミッションと描いているビジョンを教えてください。
僕のミッションは「人と地球を癒して未来の子供達に渡す」なんです。
子供たちのサッカースクール名を「伊勢原フォレスト」にしたんですけど、「フォレスト」は地球環境に配慮した木造スタジアムの構想があり、そこからネーミングしました。サッカーを通した子供たちのコーチングだけでなく、大人がコーチングを学ぶための場として「フォレスト大楽」も立ち上げました。
コーチングマインドを学びたい学校の先生や親御さんなどに来ていただいています。
そして、サッカーやコーチングコミュニティーを広めながら、子供からお年寄りまでスポーツを通して健康で幸せになる、信頼のコミュニケーションが基盤なった街づくり、村づくりをしていくことです。
ーありがとうございます。相手に持っている偏見や色眼鏡を超えて「信じて関わる」。
この人間関係がお互いを幸せにしていき、自然と人と人が繋がっていくその最終形が街づくりになる、その構想がありありと目に浮かびます。素敵なビジョンをありがとうございました。
人生は過去の選択の結果でできている。
未来を変えるには、今、何を選択するかと、これからどこへ行きたいかが大事である。
これは哲ちゃんが子供たちにしている「人生の授業」からのメッセージです。
世界中にサッカーコーチという職業の人はたくさんいるけれど、この授業を自らの経験をもとに心底体現できるコーチは哲コーチしかいない。
私たちは日頃、どんな仕事についたらいいのか?と職業や職種に迷い翻弄されてしまうことがある。
でも、職業や職種はあくまでも人生を経験するためのひとつ手段であって、目的ではないのかもしれない。
選んだ職業、仕事でどんな哲学や価値を表現するのか?これを自分で見つけて生きることこそが人生が輝やく秘訣なかもしれない、とサッカーコーチ哲ちゃんの人生から教わった。
あなたの人生哲学は何ですか?
もし、まだ見つかっていないなら、コーチングで探究して発掘する価値はあるかもしれません。
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「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
2023年11月10日
ブログ20代後半でプロを目指しニュージーランドへーチャレンジで得られる真の喜びとは?
2020年、春、コロナパンデミックで世界中が不安の渦に巻き込まれていた真最中に、ニュージーランドに移住し、ラグビー選手としての新しい人生をスタートさせた辰野新之介さん。
高校からラグビーを始め、社会人ラグビーでも活躍していたがプロへのコミットはしていなかったよう。
でもあることをきっかけに20代半ばという選手としては遅いスタートでプロを目指し、ラグビー選手の憧れの地、ニュージーランドでその道にチャレンジされている。
どんなスポーツでも、プロ選手になる道は狭き門、また体力的なことからそのキャリアも短い、それでも、リスクを超えてチャレンジする、そこまで人を駆り立てるラグビーの魅力は何か?プロを目指すし続けるモチベーションは何なのか?
夢を追いかけて「自分の限界」に真正面からタックルし続けるラガーマン辰野さんにインタビューしてみました。
キャリアー社会人ラグビー選手、退職後、プロを目指してNZでチームに所属し活動中
お名前:辰野新之介さん
多くの有望選手が人生の岐路でラグビーを諦める厳しい現実
ー辰野さん、今日は時差のある中、インタビューをありがとうございます。
他のスポーツと比べて、ラグビーは実力があってもラグビー選手の道を進まれない方が多いとも聞きます。辰野さんのラガーマンとしてのキャリアは、大学を卒業後、大手企業の社会人ラグビー部員としてラグビー選手を続ける道を選ばれています。その当時のキャリアはどのような選択だったのでしょうか?
はい、よろしくお願いします。
そうですね、当時はラグビーは好きで続けたいけど、プロになりたいとは思っていませんでした。正直、2015年ワールドカップで好成績を残してからラグビーは日本国内で知られるようになっていますが、それまでは他のスポーツに比べプロになっても将来性がない職業だったんです。
日本は企業と契約したプロ選手になるか、社会人ラグビー部に入り社員としてラグビーを継続するかの選択になる、でも選手の寿命は30歳くらいまでなので、引退後の人生の方が長い。
だから実力があっても、プロ契約のオファーを断る人もいますし、実際に僕もプロ契約のオファーもありましたが、それを断り、社会人として就職しラグビー部員としてラグビー選手ができるという将来の安定を考えた道を選択しました。
ーなるほど、ラグビーの歴史を見るとアマチュア精神が強くプロスポーツの確立は世界に大きく後れをとっているとうのは素人の私でも聞いたことがあります。そんな中、辰野さんは20代半ばでプロを目指して今はニュージーランドのチームに所属してプレイされていますね。一体何があったのでしょうか?
そうですね、やっぱりあのワールドカップで日本チームが世界で活躍しているのを見て、僕もワールドカップを目指したい、プロ選手になりたいと、思ったんですよね。
ーなるほど、あのワールドカップでの華々しい躍進劇は、それまでずっと活動してこられた多くのラグビー選手に本当に希望を与えてくれるものだったんですね!
20代後半でプロ選手を目指し、自ら行動しチャンスをつくってニュージーランドへ。
ー社会人ラグビー部員としての活動から、新たな目標を目指し本気になった辰野さん、その後、ニュージーランドへ移住されます、それはどんな経緯だったのですか?
プロを目指すと決めて、会社員はそのまま継続しながらですが、所属していたチームを辞めました。とにかく、いろんな人に声をかけてたり、他チームの情報取集をしました。
でも、興味は持ってもらえても自分のポジションが空いてないとか、タイミングの悪い状態がしばらく続いていました。
でも諦めてないでいたら、ある時、コツコツ声掛けをしたいた一人から、「ニュージーランドでプレイしないか?」と、突然、連絡があって、それが1月の半ばだったんですけど、二つ返事で決めて、その年の春にニュージーランドに飛びました。(笑)
ーすごいですね!でもニュージーランドへの移住となると、さすがに会社を退職する大きな決断です。
そしてちょうど、2020年の春というとコロナパンデミックで各国がロックダウンを決断していた時ですが、迷いはなかったんですか?
迷いはなかったです。そして本当にニュージーランドに到着した次の日にロックダウンが始まり、多くの人が外国人が次々に自国に帰っている最中でしたが、僕はそのまま残りました。正直、会社も辞めたし、日本に帰ってもやることもなかったですから。(笑)
ー本当に退路を断って前進された、という言葉がぴったりですね。でも、あの頃の世界情勢は委縮モードでだったのに、その逆をやってのけたところから、コミットメントの強さを感じます。
※左側が辰野新之助さん
ラグビーを通して自分が成長できる!これが真のラグビーの魅力
ーその後のコロナ禍をニュージーランドで過ごし、一度、帰国されたのち、またチャンスを掴んで、今、まさしくニュージーランドにおられるわけですが、選手生命の短いラグビーに情熱を注ぎ続けられる、そのラグビーの魅力を教えてください。
そうですね、自分にとっての一番の魅力はラグビーをやっているとき、自分を表現できる、自分そのものを爆発させられるっていう感じがしています。
ーなるほど。確かに、全身全霊で相手にタックルしてぶつかっていくわけですからね、完全な無防備な状態、ありのままの存在でぶつかり合っていますね。人ってまわりからどう思われるとか、自分のままを表現したりすることを大人になればなるほど躊躇しがちですが、ラグビーをしていると「そのままの自分でいられる」「そのままの自分を表現できる」という感じなのですね。それはとっても魅力的ですね。
ありがとうございます。
他にももちろんラグビーの好きなところがあって、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」っていう言葉があると思うんですけど、ラグビーは人のためにするプレイの連続でできているスポーツなんです。
だから仲間との一体感が大事だし、その一体感がないと勝てない。
それをみんなでつくって、試合で感じて、試合後にロッカールームでビールを飲む、その瞬間が最高なんですよね。
ーお話を聞いていると、ラグビーで経験できるその状態を私も感じてみたくなりました。だからといってあの痛そうなタックルをやってみたいってわけじゃないですけど(笑)
あと、今の自分のモチベーションがキープできているのは、これまで関わってくれた人への恩返しの気持ちが強いですね。僕が日本代表になったら、みんなが喜んでくれる、そうやって感謝の気持ちを返したいって思ってます。
今の目標は世界的に有名なオールブラックスのメンバーを多数輩出しているチーム「クールセーダーズ」でプレイすることです。
世界のトッププレイヤーでテクニックやメンタル面でも人としてすごく尊敬できるんですよ。
普段すごく穏やかで温かくて、でも試合になると揺るがない、全くぶれない強い軸があって、本当にかっこいいなと思います。
そして、そんな選手って会うだけで元気がもらえるんです。僕もこんな人になりたいって思います。
ー辰野さんにとってラグビーはスポーツや職業という範囲を超えて、自分を成長させてくれるものなんですね。だから、ラグビーに魅せられる、もっとラグビーをやりたいっていうモチベーションが保たれ続けられている、そんな感じがします。
確かに、そうかもしれませんね。
そして、今、自分が持っている目標って、僕自身だけのためだけじゃなくて、誰かのためにもなったらいいなって思っています。
僕は人より10年くらい遅いタイミングでプロにコミットしたので、この年齢でプロを目指していることもそうだし、そして日本人が達成したことのない世界でも憧れのチームでプレイできたら、きっとたくさんの人を勇気づけられるって思うんです。
ー素敵ですね。私も辰野さんのラグビー人生を通して、ラグビーの魅力を教わりましたし、自分の成長が誰かの成長に繋がっているという視点で目標を決めていきたいなと思いました。ありがとうございました。
辰野さんのラガーマンとしてのキャリアストーリーには多くの魅力的な人影を感じる、それはきっと、多くの人によって助けによって開かれたキャリアだと感じておられるからに違いない。
人生の目標やキャリアのゴールを考える時、何を達成したいか?という問いがよく使われる。
でも、もしかしたら、挫折や困難を乗り越えさせてくれる動機は、「それを通してどんな人になりたいのか?」「どんな自分に成長したいのか?」という内的要因の方かもしれない。
心から尊敬する憧れの人、その人のようになりたい、という動機や、限界を超えてチャレンジする自分が誰かの希望になる、という目標は、仕事を通して人を幸せにするに違いない、と感じさせてくれたインタビューでした。
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「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、
その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?
そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。
そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
2023年9月28日
ブログ大好きな心理学が導いた「自分の生きる道」ー看護師とコーチングのパラレルキャリアが「ワタシ」をもっと幸せにする!
「あなたの働くを考える」インタビューコラム
正社員、非正規雇用、起業、副業、社内起業など多様な働き方の選択肢が増え、様々な職業や働き方を経験できるチャンスが増えています。またコロナを期に「本当の意味で人生を豊かにするには?」という観点から本業以外の自分のスキルアップや広い視点でキャリアを考えるパラレルキャリアが広がっています。
「あなたの働くを考える」インタビューコラムでは、様々な職種、雇用形態、働き方の方にインタビューし、その方のキャリア形成のプロセスに着目しながら、どんな動機やきっかけが人のキャリアを形作っていったのか?そしてそれが人生にもたらしている影響はどんなものなのか?を伝えていきます。そうすることで、読者の「働くこと」を考えるひとつのきっかけや刺激になることを目的としています。
あなたは、今なぜ、その仕事をしていますか?
今の仕事、働き方に満足していますか?
あなたがチャレンジしてみたいことはどんなことですか?
これからの「あなたの働く」をこの記事とともに一緒に描いてみましょう。
キャリアーパラレルキャリア(看護師・コーチング)
屋号:しんかいさん家
公式HP:https://shinkaisan.com/
お名前:新海智子
職歴&キャリア:営業職→介護職、看護師(病院勤務)→コーチング
世間の評価を気にする厳しい母親の躾を受け、幼少期から「この窮屈な状況からずっと逃げだしたい!」とそう願いながら過ごしてきた新海智子さん。
大学進学を見送り、親元から自立することを優先し就職。そんな新海さんの小学生時代の愛読書は「心理学本」。
河合隼雄さんや五木寛之さんなど心理学の専門書や仏教の考えが土台となった本を読んで感動して涙を流していたという。
両親からの愛情を感じにくかった幼い新海さんの心を満たした心理学。心の学びとその探究によって、長い月日を経て、両親との心の隔たりを癒し、「生きることの意味」を自ら見出し「しんかい式自己実現メソッド」を、今、世の中に発信している。
今日は、心理学によって導かれ拓かれていった新海智子さんのキャリア形成の軌跡をご紹介します。
営業トップになり、会社からのハワイ招待旅行の空港で社長と
心理学のおかげでTOPセールスマンに!その後、挫折の末、介護施設を経て32歳で看護師に。
ー厳しい母親から自立するため、高校を卒業後、就職し営業職を始めた新海さん。数年後、社内でTOPセールスマンになられたよう。それが幼少期から読んでいた心理学の本のおかげだそうです。心理学の学びが営業職にどんな風に役だったのでしょうか?
そうなんです、今振り返れば、心理学を学んでいたことが成功した要因のひとつだったと思います。一言でいうと「相手の話をよく聴く」に尽きるのですが、結局は相手との信頼関係が構築されていない中でアドバイスをしても「相手を否定することにも繋がる」ということを知っていたからなんです。まずは相手に耳を傾ける、そうしてお客様のニーズに気づきそれを満たしていく、こんなことをセールスで実践していると気づいたらトップの成績になっていったんです。
ー素晴らしい。小学生の頃の読書が仕事や人生で使える英才教育になっていたのですね。さて、華々しい成績を残された後、介護業界という全く違う業界に転職されましたが、それはどんな理由からだったのでしょうか?
実は、大きな挫折を経験したからなんです。
当時、営業の成績がすごく良かったので、出世したのですが、そこからが上手くいかないんですよね。天狗になっていたのもあると思います。
ちょうどその時に結婚の話もあったのですが、それも破談になり、30歳手前で「私はもう一人で生きていくかもしれない」と思ってかなり悩んだ時期でした。
一人で生きていくには「手に職」そしてそれには「もう介護しかないなっ」っていう発想でした。
転職先もたまたま営業で回っていた介護老人保健施設に募集が出てたので「ここにしよう」って安直に決めました。(笑)その後、そこで素晴らしい看護師さんとの出会いがあり、働きながら、そして東京都の就学金制度を利用しながら看護学校に通い、32歳で看護師になったんです。
老人保健施設、夏祭りにて
結婚、出産を経て、看護師として働きながら、45歳でずっと行きたかった大学へ進学。
ーひょうんなことから介護職につき、そして看護師にもなった新海さんですが、ご本人にとって適職のキャリアだったとのこと。一般的に介護現場は離職率の高い職場ですが、新海さんにとってはどんなご経験だったのでしょうか?
わたしにとってはより一層、心の世界の探究と学び、そして知識が生きた現場でした。最初は認知症専門部署に配属されたんですが、廊下を真っ裸で徘徊されたりと、正直大変なのです。でも、ものの見方を変えると、「認知症になる前は、理性的だった大人が真っ裸で歩くってどういうこと?」という視点をもつと、ますます人やその状態に対する興味が湧いていくんです。
おむつ交換ひとつをとっても、この人は横向きに寝ることが多いから、どうやったら尿漏れしないで過ごせるかとか、トイレを拒絶する人にどうやったら上手く誘導できるのか?を戦略立ててはPDCAへ回したりしていました。
そこで「もっと専門的なサポートがしたい」と思い、看護学校を目指したんです。
ーなるほど、探究心と好奇心の塊で突き進まれたわけですね^^心理学という大好きな学びが仕事に活きる、だからこそ、もっと仕事が充実する、そんな印象を受けます。そして、仕事と子育てを両立させながらも、大学進学を選択されています。
そうなんです。実は高校生の時、本当は大学に行きたい、勉強したい!という思いがあり、やむを得ず諦めたのですが、でも、いつかは行きたいという夢を持っていました。娘が小学校5年生で、少しで手が離れ、パート勤めの看護師だったこともあり、45から49歳まで4年間通信制の心理系大学で一から勉強をし直しました。
ー大学での学びはいかがでしたか?
本当に楽しくて充実した時間でした。今までの独学の学びと人生経験とで、散らかってた知識や情報が、すっきり片付いた!って感じです。水を得た魚のように知識を吸収し、1年早く3年で単位を全部とっちゃいました。
ー働きながらなのに、早々と単位をとられてという楽しい学びの様子が伝わりますね。
そうですね。心理学で学んだことと人生経験で自らが体現したこととか点と点で繋がっていって、ひとつの線になっていき「今、自分が生きている意味、生まれてきた目的」を発見できた、これは本当に有意義でした。
看護学校戴帽式
49歳でコーチとして起業。「絶望感」こそが私を前に進ませてくれた、と語る理由。
ー大学卒業後、「コーチング」というメソッドに出会い、コーチとして起業することを決意された新海さん。看護師業のみに留まらず、起業の道に進ませたモチベーションは何だったのでしょうか?
改めて、「なぜ、起業を選んだのか?」を考えたとき、「自分に絶望したから」なんだなと思っています。
ー起業のエネルギーが「絶望」というのはユニークですね。一体どういうことなのでしょうか?
もし大学院へ進めば、わたしの好奇心はさらに刺激され、絶対楽しいに違いない、って思ったのですが、でも、その選択だと「私自身は何一つ変わらない、成長しない」と思ったんです。
学んだ知識を活かして、誰かの心のサポートをしたいとずっと思っていました。
でも、コーチングを仕事にするには、起業するしかないって思った時、「私には絶対無理だ~~」と、そんな自分自身に絶望したんです。SNSで集客するなんて、とんでもない!内向的な自分が何かを投稿して発信するなんて信じられない!無理だ!って。
人のサポートをしたいと思ってるのに、怖気づいて、一歩も行動にできない、そんな自分に絶望したんです。
でも、「私は逃げてるんだなぁ」って自分の弱さを認めると、逆に覚悟を決めることができました。
ーなるほど、その絶望感なのですね。自分の感情を正直に認めると「怖さ」より「覚悟」につながるというのは、人の心の面白い側面ですね。
そうなんです。改めて、自分の人生の転機を振り返ったとき、そこには「強烈な痛みや絶望感」があって、そこから抜け出したい、自分を変えたい!って思ったときが大きな変化のタイミングなんだと思います。
コーチングセッションのお客様と
もしかして神様から贈られた?「人生の目的」とは。
実は、10年前に手術をしたことがありました。その時、万が一のことを考えて「もし、この世からいなくなったら、私は子供に何も残せないなぁ」と思ったんですよね。その時から、これまでの心理学の独学の学びや人生経験から得たものを「幸せに生きるコツ」というテーマでノートに書き留めることを始めたんです。
それをやっていくうちに、幼少期から両親の関係とか、いろんな経験を振り返り、自分なりの納得のいくある答えが得られたんです。
それは、「私が幸せに生きること、これこそが、私の人生の目的なんだ」と。
そして、私が幸せを感じるのは、看護であったり、心のケアだったりと、人のケアをしているときだと腑に落ちました。
幼少期は両親に甘えられず、窮屈で早く家を出たい!一心で飛び出したのですが、幼少期の様々な経験があったからこそ、「私が生きている意味、人生の目的」を発見する瞬間に導かれたのだと思います。
ー素晴らしいですね。「自分が何のために生まれてどう生きるのか?」という問いは多くの人が興味をもち、でも、その答えの発見には彷徨ってしまう、そんなテーマだと思います。それが「心理学」を通してご自身で見つけ出した、だからこそ、誰かの生きる目的や、どんな経験からも、そこに贈られた学びを得る、というお手伝いができるのですね。
最後に、新海さんの夢やビジョンをお聞かせください。
私が開発したオリジナル、しんかい式自己実現メソッドは、自己受容をベースにマインドフルネス、セルフコンパッションを取り入れながら自己実現を目指すことをサポートしています。
今の夢は、心について学び、実践しながら、お一人お一人の「心を育てていく」そんな学校を作りたいと思っています。
そんな場ができたら、多分、本当に最上級の幸せを感じて人生の最期を迎えられるのではないかと思います。
ー素敵な夢を教えていただいてありがとうございました。
このインタービュー中、ご自身のキャリアについて「得体のしれない神様がサポートしてくれたのかも」と、何度かこのフレーズを話された新海さん。
「ただただ、心理学が好き」
この「理由のない好き」、「好奇心」が、人生物語の新しい章を拓き続け、ご自身の幸せなキャリア形成と、幸せな人生へと導いてきた。「理由のない好き」に情熱を傾けて一歩進んでみる?と、あなたを誘う新海智子さんの人生の軌跡、この物語をここに贈ります。